人件費の変動費化について(その2)

前回は、未曾有の経済危機の中での経営者サイドに支払われる報酬をテーマに内外の様々な見方について紹介した。今回は、同じように厳しい経済情勢を背景にコストカットが迫られる中での「従業員サイドに対する報酬制度」についてとりあげていきたいと思う。はたして、「報酬」とは、そもそも何なのだろうか。何に対するお金なのだろうか。今一度、抜本的に考え直すべき時期に来ていると思われる。

経済危機と従業員給与との関係

経済危機の中で、従業員給与だけを聖域として予算削減しない、というわけにはいかない。GDPは国内で生み出された付加価値の総合計を指す。企業の損益計算書でいえばほぼ粗利益に該当する。GDP(国内総生産)のうち給与など人件費に充てられる部分は「労働分配率」と呼ばれ、平均して60%程度。労働分配率が大幅に上がらない限りGDPが低下すれば人々の給与も下がるとの予測が成り立つ。(日経産業新聞平成21年2月3日記事)
そこで、あくまで理論値であるが、内閣府が3月12日に発表したGDPを見ると、前期比年率12.1%減と過去2番目に大きい減少率を記録。(日経新聞3月13日)そうなれば経済危機「後」に備えて労働分配率を維持、いやむしろアップするという方針を採らない限り、人々の給与実額は下がることになる。
実際も派遣社員の「派遣切り」や契約社員の「雇い止め」だけでなく、正社員についても残業禁止措置や異動時不補充だとかの人件費抑制・リストラ傾向は強まっている。

それでも「定昇維持」?

ところが、あれだけ売上予測の落ち込んだトヨタでは、労働組合が正社員について賃金改善分(月)4000円、制度維持分(月)7100円のベースアップという凄まじい要求をしているそうである(1) が、現場の体感温度とは異なる給与アップが唱えられている(2) 。確かに’Cash is still the best comfort in a crisis’(危機の中でこそ現金給与が心地よい)ということは、「いえる」話である。なぜか、というと、『「企業研修」など不要だからその分経費を切り詰めてボーナスに回せ』とか、『「福利厚生」などいらないから、その分ボーナスに回せ』とかいう社内(従業員)の声は確かに聞こえてくるからだ。実際、トヨタ・日立だけでなく、ホンダ・パナソニックも定昇維持に動き、賃下げ回避の動きは広がっている(3)。  

このように日本では、とくに大企業での話として、理論予測とは異なって賃下げに踏み込まない動きをする理由は、何だろうか?

それは従業員の「士気」低下を防ぐという目的だからだという。

「非金銭的報酬」

これに対して、欧米では、景気が後退している中で (in this strained economy) 生産性を上げたりパフォーマンスが良かったりする従業員にどう報いるのか、という課題に対して、「非金銭的報酬」のもつ価値が見直されている。これは、報酬を「社員の会社目標実現への『貢献』度合に対して会社が『報いる』こと」と「定義」すれば、報いる方法論としては必ずしも給与やボーナスという金銭的報酬だけではないことは自明だからだ。もし初めから報酬は金銭に限ると「定義」すれば、もちろん非金銭的報酬は報酬ではないことになるが、だからといって非金銭的処遇が無価値とはいえないのだ。やはり「処遇」の一部ではあるのであって、問題は、非金銭的報酬によって報いることの意味が、この不景気の中でますます重要になってきた、という論調がとくに海外では声高になってきていることだ。

Individualism vs Collectivism

日本では定昇という金銭的報酬にこだわりがあり、逆に海外ではそうではなく、金銭的報酬と景気との関係を受入れ、むしろ不景気であれば非金銭的報酬の価値をより強く意識する、という態度の違いはどこに由来するのだろう?

日本では定昇維持で士気低下を防ぐといっているのは、みな全員の給与が一斉に維持されるのなら、それによって「安心感」が醸成され、その結果「働く意欲」(多分、「士気」とは、この「ヤル気」を指している)が低下しないですむといっているのである。なぜ定昇維持で「安心感」が醸成されるかというと、他の産業や同業他社が苦しんでいて仕事を失ったり給与が減っているのに、当社だけはそれがないのなら、その優越感からヤル気が維持むしろ向上できる、と考えているからだろう。問題は、この定昇という制度の一律性に秘密が隠されている。

日本では従業員の士気は、個々人の士気ではなく集団としての士気であって、集団を構成する個々人は連帯責任をもって他のメンバーに対する責任を果たすことで結果的に集団が形成される。だから、一律の定昇がないと、この集団としての士気がくずれてしまうのだ。これを、Collectivism という。これに対して、欧米では、個々人の責任を果たすことで、集団を構成する、と考える。だから、そもそも一律の定昇という考え方が、存在しない。これは Individulalism といえる。Individualism vs Collectivism という文化的対立軸あるいは職場や集団とその構成員・メンバーとの関係性の違いが、実は背景に存在しているのだ。

「微笑みの国 タイ」では従業員のヤル気をどう引き出しているか?

「バンコク週報」によると、タイでも、働きアリの原則つまり2:6:2の法則があてはまるそうで、「1000人規模の組織では、200人が高業績にむけてリーダーシップを発揮し、600人がこれに追随し、200人がこれに貢献していないことになる」とし、報酬原資が限られていることから「2割の高業績者はヤル気をそがれ、2割の低業績者は依然として怠け続けるだろう」という。そこで、もしも高業績へのインセンティブがなく、低業績を続けてもペナルティがなければ、2割の優秀人材は社外流出することになる。とくにタイ国鉄 (SRT) やバンコク大量輸送公団 (BMTA) などのようなタイ国営企業では112億バーツの累積赤字 (2004年度) となっているため、規制のある国営企業では特に高業績者に対して高い金銭的報酬を提供できないがゆえに、成果に応じた「非金銭的報酬」を配分することが提唱されているという。 (4)

ハイ・パフォーマーのモラールダウン

成果に応じた金銭的報酬は、成果(業績)主義の形で日本でもすでに根を下ろしている。全くの年功給与制度をとっている企業は稀になりつつある。

これは、ハイ・パフォーマー (高業績者) の目からすると、いくらがんばっても自分より劣ると思われるロウ・パフォーマー (低業績者) と、そうたいして金銭的報酬額が変わらないなら、ガンバルだけ損だという発想が生まれるから、ハイ・パフォーマーのモラールダウンつまりヤル気がそがれる結果を招くことになる。

ロウ・パフォーマーの甘え

しかし、ロウ・パフォーマーだからといって、とくに生活給の要素の部分では、報酬を低く抑えられるわけもなく、多少は毎年昇給ないしベースアップもあるので、とかく会社は業績にうるさくいうが、とりたてて現状に不満はなく、まあ働きに見合った報酬だから、いまさら必死にならなくてもあと数年で退職金もらえる・・・うまくいけば早期退職制度で割り増しも・・・・というマインドになりやすい。

企業はどのような態度をとるべきか?

このような状況では、まずは、ハイ・パフォーマーには業界トップ水準の給与をペイライン(基準給与水準)として積極的に受容して、高業績に報いる。そしてロウ・パフォーマーには貢献度をベースにマイナス昇給 (現行水準からの引き下げの可能性) をもたせるというような、企業としての「金銭的報酬」戦略が見えてくる。

このように金銭的報酬だけをとってみても、経済危機で報酬原資が減れば、貢献度重視の報酬体系 (成果主義) はそれなりに一貫したロジカルな意味をもたせることができることになる。しかし、Individualismの文化ではとてもわかりやすくシンプルなこのロジックが、Collectivismという日本的組織風土の中で正面から受け止めることが果たしてできているだろうか?実は、そこのところが数多の人事(給与)制度論議の根本的問題や総論賛成・各論反対の背景をなしているのだ。

では、貴社では、どのようなロジックで貴社の報酬戦略を説明されているだろうか?給与テーブルは存在しても、報酬戦略を説明するロジックが存在しない、などということもありうる話ではある。

2種類の報酬

ところで、金銭的報酬と非金銭的報酬の2種類の報酬がある、ということは、何もタイ国営企業についてだけいえることではない。金銭的報酬に偏重しているとみられがちな米国でも、年俸制やストックオプションに代わりに、acknowledgement (価値あると認めること)が注目されている。

たとえば、高業績者には昇進・昇格つまり新たなタイトルと大きな役割を与えるとか予算や大きな権限を付与するとか、研究職であれば自由テーマの研究時間の確保を保証するとかというような組織的なものから、顧客の感謝の声を伝えるとか、工場内で写真入りで表彰する、休暇の付与、FA権の付与、福利厚生ポイントの付与というシンプルな(非組織的な)仕掛けまでいろいろとメニューは用意できる、というわけである。このように金銭的報酬と非金銭的報酬の両方を合わせて「トータル・リウォード」 (5) と一般に呼ばれている。

経済危機下において非金銭的報酬の価値を強調することの意味

問題は、とくに未曾有の経済危機の中で、従業員への成果配分にあたり、この2種類の報酬のうち、とくに非金銭的報酬をハイ・パフォーマー厚遇のために利用することを奨励する動きがあることである。これは、人件費コストカットしながらも、他方で、非金銭的報酬を効果的に使って逆風下でも生産性アップとモチベーションアップにつなげる考え方であり、とくに米国ではこの考え方が強まっている。もし、報酬原資の配分が少なくなっても、なお非金銭的報酬で金銭的報酬減の部分を補填できるとするなら、企業のバランスシートにのってこない資産を有効活用してオフバランスで従業員と取引して人件費を負債にしないどころか、逆に生産性アップにつなげようとする絶妙な経営 (人材) 戦略といえる。

「非金銭的報酬」の価値とは何か

欧米では、非金銭的報酬のもたらす効用や価値について、さまざまな「社会的実験」が報告されている。これは、一見すると数値化しにくい非金銭的報酬のもつ「効用」を目に見えるようにしようという努力や工夫が行われているわけであって、どの実験結果は広く世間の耳目を集めていることも注目される。

ニューヨーク・タイムズ 2008年11月28日記事 ’What’s the value of a big bonus?’

たとえば、ここに掲げたのが、非金銭的報酬をテーマとした話題の記事である(6) 。そこではまず仮説として、仕事の成果に対するビッグボーナスは、金銭価値が大きすぎて仕事の成果に結びつかない、それどころか、大きなボーナスを約束することが実際は人々のパフォーマンスを低下させる、というのである。

この仮説をテストするために実際に行動経済学に基づき実験を行った。まず、生活水準の低い市場 (インドの僻地) と高い市場 (MITの学生) の二つのグループを用意し、それぞれのグループに対し、課題解決、集中度、創造度をはかる「仕事」を与え、その成功度合に対して様々な金銭的ボーナスを与えたのである。その結果、9個の「仕事」のうち8個まで、大きなボーナスがパフォーマンスを逆に低下させることとなったというのだ。(実験と結果の詳細は当該記事を参照)

ボーナスが不景気の原因?

このニューヨーク・タイムズの記事は、「ビッグボーナスはパフォーマンスを低下させる」といっているので、明らかに常識に反するような聞き捨てならない響きをもつ。センセーショナルなことに、これが発表されたタイミングが金融危機悪化の時期にちょうど重なったため、今年は ‘no bonus year’ だとか ‘Bye-Bye Bonus’ などと今でも喧伝されているのだ。たとえば、CIPD のチャールズ・ゴードン氏は、「ボーナスは良いパフォーマンスに対する報酬というよりも、むしろ人材採用や人材引き留めの道具に使われているだけであり、しかも内部統制上も唯一グラグラ揺れ動くあいまいさ (wriggle room) をもっている」とまで言っている。それが理由で、過度のボーナス依存体質やボーナス保証主義 (つまりパフォーマンスと連動しない固定的な巨額報酬) を求める悪しき風潮を作り出しているとして反ボーナス主義を唱えている。とくにこの点は欧米金融機関では問題が顕著だとしてインターナショナル・ファイナンス・レビュー誌は、「『ゴールドマン・サックス』は他の投資銀行に先駆けて自社の企業文化に根ざした忠誠心を中核にした「多次元報酬」 “multi-dimentional reward strategy” 制度を導入した」という。これはカネの切れ目が縁の切れ目にならないように、社員の気持ちをつなぎとめる工夫というわけだ。「そこが (ゴールドマン・サックスが) リーマン・ブラザーズだの、メリルリンチだのといったライバルたちと比較して「不景気耐久力」 (resilience=復活力) が高い理由だ」というのである。

超能力報酬? サイキックインカム(Psychic Income)とは。

今年は、経済危機でボーナスが出ない年になりそうだ (No-bonus year) というが、毎年ボーナスが出ることに慣れ続けてきた従業員にとっては、どう対処すべきなのだろうか。

この質問に対する回答として、古典的な「マズローの欲求段階説」 (7) にいうところの最高位の「自己実現の欲求」は金銭では満たされないものなのだから、素晴らしい高業績者には esteem + recognition こそが意味を持つ、つまり、経済危機で不安感にさいなまれる従業員たちに「サイキック・インカム」 (8) を補償する意味がある、という考え方も提示されている。

ここでサイキック・インカムとは何かというと、一言でいうとすると、”Thank you” と云うことで人々のモチベーションを向上させることをいう。要は、これが「非金銭的報酬の本質だ」というのである。すばやく “Thank you” と云うことは、「ノー・コスト」なのに、驚くべき多くの見返り (innumerable dividends) をもたらす、というわけである。職場で、役員・管理職・スタッフに至るまでその同僚・上司(!)(9)・部下のどのような行動が賞賛され、認められる (acknowledgement) に値するか、つまり “Thank you” と云うことに値するかを積極的に発見すること、そして、頻繁に “Thank you” と云うことが企業文化をチェンジするインパクトを与え、強い組織に変身させるというのである。言い替えると、P/L上のコストをかけずに B/S上の人的無形資産価値を増強させるというのである。

異文化コミュニケーション

ところが、そうはいっても、日本の職場では、「言わぬが花」とか「以心伝心」の世界であって、”Thank you” と云うこと、つまり面と向かって口に出すことは、日本人のコミュニケーション手法からすると相当に「異質」ということになるのではないか、という懸念は残る。しかしながら、グローバル化した日本の会社では、そもそもこうした異文化コミュニケーションの問題はもっと大きく取り上げなくてはならない課題だと考える。これが日本企業が外国にある拠点で失敗せずにうまくやるにはどうしても克服しなければならないコミュニケーション上の課題だとさえいえるだろう。日本においても、もしもこうした非金銭的報酬の本質が “Thank you” と「云う」ことにあるのなら、賞賛を示す物やサービスで代替したり、何か別の形にして表彰するような日本的な賞賛の「こころ」を伝え表現する手段が課題となるのだろう。それがないからといって日本では金銭的報酬しかありえないとか、ベースアップが全てだと結論づけるのは短絡的に過ぎるだろう。非金銭的報酬の問題は、実は金銭的報酬しか思い浮かばない経営者にとっては異文化コミュニケーションの問題そのものといってもよい。

(この稿 続く)

1 日経朝刊2009年3月11日によると、トヨタは「定昇」維持に動き、組合員「士気」配慮して定期昇給に相当する賃金制度維持分について満額回答(7100円組合員平均)とする見通しとなったという。経営側は当初、戦後初の営業赤字のなかでゼロ回答を示したが、「組合員の生涯賃金を考慮せざるをえず、また労働意欲の低下を招きかねない」として、満額回答したという。
2 同じく日経朝刊2009年3月9日 「働くニホン 現場発」という記事によると、「これを聞いた、同工場で生産部門に携わる30歳台の男性社員は、「そんな金額になるとはとても思えない」と瞬間的に思ったとある。大減産で期間工が去り、製造ラインの流れが著しく鈍った生産現場の現実とはかけ離れているからである。正社員すら雇用の安定がきがかりなのに、出てきたのは昨年の2倍以上の賃金改善要求。働き手の利益を代表するはずの労組に冷たい視線が向かう。」
3 日本経済新聞3月13日記事による。
4 バンコク週報 2005年1166号【5月16日~5月22日】 柏倉大秦氏による。
5 ‘World at Work’ The Total Reward Association 米国人事協会
6 NYTimes.Comによる。http://www.nytimes.com/2008/11/20/opinion/20ariely.html?_r=1 参照。ニューヨークタイムズのオピニオン欄に掲載されている。
7 アブラハム・マズロー(1908年~1970年 A.H.Maslow アメリカの心理学者) は,その欲求段階説の中で,人間の欲求は,5段階のピラミッドのようになっていて,底辺から始まって,1段階目の欲求が満たされると,1段階上の欲求を志すという。人間の欲求の段階は,生理的欲求,安全の欲求,親和の欲求,自我の欲求,自己実現の欲求の5段階をいう。生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことをいう。
8 Strategic recognition bridges the no-bonus gap by feeding your employees needs for psychic income-social acceptance, increased self-esteem and self realization that can never be met through compensation. (Mr.Derek Irvine グローブフォース社による)
9 ここの例示に「上司」がはいっているということは、部下が上司に対して “Thank you” と云うことを意味する。しかし、そもそも上司の行動様式が素晴らしいと上司に対して部下が褒めるという企業文化が存在する職場が日本にあるだろうか?米国では存在しているようである。実際、企業セミナーや大学の授業でも、受講生が先生を評価する評価シートの書き込みはクラス終了後行うのは今や日常茶飯事である。職場でも業績評価時の360度評価のタイミング(多くは年2度)以外の時期に、頻繁にこうした thank-you が日常的に部下から上司に贈られるというのは、やはり新しい企業文化なのかもしれない。
 

笈川 義基プロフィール
東京大学法学部卒業。英国系総合商社、英国系損害保険会社、ドイツ系損害保険会社において、営業、業務、IT、再保険、商品開発、コンプライアンス・オフィサー、経営企画、M&A、人事担当役員などの基幹業務を現場長として経験した。4年間の取締役としての活動後、人事コンサルタント(戦略HRM)・リスクマネジメント(RM)を行うユニバーサル・ブレインズ株式会社を立ち上げる。