前回は、厳しい経済情勢を背景にコストカットが迫られる中での「2種類の報酬」のもつ意味について考えてみた。そしてなじみ深い「月例給与とボーナス」という伝統的な金銭的報酬の枠組みも、未曾有の経済危機あるいは会社の経営危機の中ではそもそも機能不全をおこす実態があるということ、そして、そのような情勢の中で、とくに海外論調においては「非金銭的報酬」のもつ意味が大きく取りざたされていること、などについて言及した。
はたして、「非金銭的報酬」とは、そもそも何なのだろうか。もしその本質が前回述べたようなサイキック・インカムのように “Thank you” と云うことだとすれば、そもそもそれは報酬なのだろうか。非金銭的報酬といっても Thank you といわれるだけというような幼稚なことでは少し人を馬鹿にしてはいないか?やはり「金銭換算」価値が全くないのなら、意味がないのではないか。いろいろの疑問がでてくる。
本当の意味での「オペレーショナル・エクセレンス (Operational Excellence) 」とは。
“Thank you” と云うことが単に「儀礼的」なものなら、特別の意味はない。Good morning! このような日常のあいさつのような Small talk は、いわば「『人間関係銀行』に貯金すること」だから、本当は非常に意義深いものだ。しかし、そこには「報酬」的意味はない。
従来どおりのやりかたで、型どおりに動けば、職場の秩序は安定し、アウトプットの質は均質化し、そのような安定したサービスを受ける顧客は安心する。こういう最低限の「ベーシックさ」は業務フローの予定調和をはかる意味で(こういう手順に従えばこういう結果が手に入ると予測されるという意味で)実務的にたいへん重要なことである。いや、それだけでなくいわゆる「内部統制」上からも、「ベーシックさ」はとても重要なことである。
しかし、「ベーシックさ」からは、職場の中から異質で飛びぬけた素晴らしい業務効率の革命的向上だとか顧客からびっくりされるような響きをもって歓迎され賞賛されるようなサービス「エクセレンス」は、生まれてこない1 。こういう創造性や価値変革は、日常性や安定性を追求する「ベーシックさ」からはほど遠いのだ。(内部)統制は変革を嫌うものだ。「オペレーショナル・エクセレンス」とは、統制から解き離たれ、すぐには真似の出来ないまでに卓越した素晴らしい(不連続の)変革を意味し、それが普通のこととして日常に組み込まれた状態をいう2 。
そして、 “Thank you” と云う文化ないしサイキック・インカム重視の考え方は、こうした真の意味での「オペレーショナル・エクセレンス」の芽生えを奨励し、促す効果をもつのだ。
それは、なぜか?
「ベーシック」から「エクセレンス」を引き出すには。
このような「エクセレンス」を生み出す効果のメカニズムはどうなっているかというと、ベーシックさをはるかに超えた、エクセレントな行為やサービスに偶然立ち会う→ “Thank you” と云う→ social acceptance (社会的に受け入れられる)→ increase of self-esteem (自尊心が高まる)→自覚する→職場が楽しくなる(「職場の機嫌」が良くなる)という段階をたどる。この「職場の機嫌がよくなる」までのサイクルは、実は金銭的報酬では決して得られることのないものである。なぜなら、金銭的報酬は、”Thank you” と云う非金銭的報酬と異なり、その金額だとか比較などをそもそも人前で「云う」という要素がないからである。非金銭的報酬は、伏せられていないオープンな賞賛だからこそ、自尊心をくすぐり、自覚して、機嫌が良くなるのである。これは決して難しくはない、単純な話である。
そして、このサイクルには続きがある。すなわち “Thank you” と云う→さらに特定の行動(傾向値)を裏書し強化する (endorse) →エクセレンスとして賞賛され求められる「新しい価値」を継続的に生み出す・・・という新しい高みへ導くスパイラルである。
いいかえると、「ベーシックさ」は、すべての業務やサービスの「通奏低音」である。その中から、 “Thank you” と云う(云われる)瞬間を通じて、エクセレンスの高みに登る(可能性がでてくる)。
非金銭的報酬:”Thank you” と云う瞬間
そのためには、タイムリーで、頻繁な声がけが効果的だ。いくらびっくりするほどエクセレントな行為やサービスでも、それとかけ離れた時期に声がけするのではほとんど意味がない。そして、”Thank you” と云うとき、なぜ “Thank you” と云うのか、その理由をコミュニケーションしなければ意味がない 3。それは「企業ビジョンと一致しているから」だとか、「顧客満足度が一気に高まりまた当社を選んでくれるから」・・・だとか、とにかく “Thank you” の対象となる行為のもたらす「新しい価値」が企業ビジョンと一体化してさらにモチベーションを高めていく、という仕掛けである。
これはある意味で、職場で自分が働く「意味」に関わってくる。たとえば、私の英国での友人のある人事コンサルタントに言わせると、彼のセミナーのモットーは “Meaningful, memorable and fun!” である 4。これは「不機嫌な職場」 5と対極にある価値「感」だ。
日航臨時帰国便と「サンクスカード」
確かにノーコストかもしれないが、”Thank you” と云うことだけで、そんなに、人や職場が変わるものなのか?という根本的疑問をもつ人がおられるかもしれない。
ここにひとつの例がある。
昨年11月末、新バンコク空港がタイの市民団体に占拠され足止めを食ったことがある。そのとき多数の邦人を軍用空港から「救出」する臨時帰国便が設定された。その団長を、日本航空運営企画部企画グループ長の畑山博康氏(45歳)が不意に頼まれたのだが、機材や乗員確保、食料や給油の手配、タイ政府との連絡・・・・社内各部門と現地当局との調整作業を並行して「瞬時に」進めた。臨時便はその日の深夜に成田をたち、香港経由で現地へ。翌日ヨル夜には満員の約300人をのせたタイ発の1号機が飛び立った。感激に沸く邦人観光客やビジネスマンたち。帰国した畑山氏に、同僚が届けたのは「あなたの頑張りは私たちの誇りです」と記した「サンクスカード」だった。
組織に一体感をもたらす「サンクス・カード」
サンクス・カードは日本航空がトラブル多発で存亡の危機にあった3年前に導入されたもの。運航乗務員と地上職員、整備し士などの「垣根」を越えて100,000通以上が交わされた。再び深刻な不況に直面する航空業界。縦割りが一朝一夕で変わるわけではないが、組織の壁を越えて貢献した人への「共感」のメッセージが一体感につながり始めた。6
これは日航だけではない。たとえば沖縄県那覇市の沖縄教育出版という会社。1月の有効求人倍率が0.32倍と全国最低の沖縄県に、有力企業の人事担当者が相次ぎ見学にくる。この会社は健康食品の通販事業を展開している会社だが、ベテランも若手も輪番で司会をする朝礼が150人以上参加して1時間以上も行われる。社員は次々に自分の顧客について説明し、同僚の協力に感謝の言葉を口にする。互いの頑張りを認め合い、意欲を高めあうことが成長の下地となる。「同僚の個性をと長所を知ることで、自然に助け合う雰囲気が生まれる」と社長の川畑保夫氏(61歳)は云う。大手出版社のモーレツ社員だった川畑氏は、独立後も営業成績の向上ばかりを気にする経営者であった。ガンを患ったのが転機で、個々の努力や能力を評価し「励ます」考えに切り替えたという。「大企業の個々の社員は優秀かもしれないが、社員のむすびつきが希薄で、大きな力が生まれない」川畑氏にはそう映る。 7
サンクス・カードは報酬か。
この経済危機の中での成長戦略としては、(長期停滞のスパイラルにはいりたくはないから)経営者が明確なビジョンと戦略で骨太な方針を明確に出してその方針で社員をしっかりと引っ張り(リーダーシップを見せ)、他方、社員はお互いの貢献を率直に評価して、結束を固める、という成長システムを作ることなのだろう。
ところが、報酬は、性質上(雇用契約の定義からして)「対価性」をもつから、過去の成果に対して存在する。将来の期待値は報酬にはカウントされない。サンクス・カードは、過去の素晴らしい価値ある行為や顧客の 「moment of truth」 を引き出した行為への賞賛であるから、その「対価」としての「報酬」であるといえるだろう。まさに、非金銭的報酬なのだ。
トロフィー・バリュー (Trophy Value) の大きさ
しかも、一見すると非金銭的報酬といっても Thank you カードを渡すだけ?といわれるようなことかもしれないが、実際は、人を馬鹿にしているどころか、深い意味で自尊心を満足させ、やり甲斐をかきたてるものだ。サンクス・カードに「金銭換算」価値が全くなかったとしてもなお「価値」のあるものだ。それは、友人だとか新聞記者だとか職場のみなに見せびらかすことさえできる皆の賞賛のあかし、つまり、「トロフィー」なのだ。このトロフィー・バリュー(トロフィーとしての価値)こそ、非金銭的価値の本質である。
米国スタイル流 「thank-you moment」 カードとは。
そのようなトロフィー価値に注目すると、米国では、このような日本の事例と異なって、日航のような「サンクス・カード」よりももっと金銭換算性の高い、かなりあからさまな「トロフィー」をくりだしている傾向がある。
それは何かというと、なんとギフトカードなのである!
現金をもらってもそれには「もらったよ」と他人や友達に言うというトロフィー性がないから、代わりに報奨として、ギフトカードをわたすというのである。ニホンでは、このようなものはあまり聞いたことがない。ニホンで営業する外資系企業でもこの種のギフトカードをニホンの従業員に報酬として出しているところがあるのかどうか、お聞きしたいところである。
このギフトカード・報酬システムでは、恐ろしいほどたくさんの選択肢 (unlimited choice) が用意されていて、それで巨大画面テレビを購入できたり、休暇の海外旅行ができたり、高級レストランで食事できたり、子供と裏庭で遊べる「バックヤードプレイセット」だとか、滅多に買えないコンサートチケットだとか、もういろいろのことが(普通はできないようなものが)用意され、自由にそれをチョイスできるというのである。友人、家族みんなで、良かったね、パパ(ママ)頑張ったね、凄いね、尊敬だね、という感情をみんなでシェアできるから、トロフィー性たっぷりなわけである。そして、それが非日常的なメニューであればあるだけ、トロフィー性は高まる。
でも、ギフトカードは「ギフト」でしょう?
コンサルタント会社デロイトでは、全業種(大きさに関係なく)網羅した調査をしたところ、3分の2の人々が昨年より収入が減少すると予測し、58%の人はボーナスは期待よりも減少すると予測し、10%の人は、ボーナスはなくなると見ているという。ある米国の人事コンサルタント会社では、こうした状況にある米国の会社では、キャッシュ支給に代わる 「a more proven alternative」 を 「compensation」 として用意すべきではないかとも主張している 8が、それがまさにこのギフトカード作戦なのである。
しかし、このギフトカード作戦は、確かにトロフィー価値はあるだろうが、内部での結束強化にはつながらないのではないだろうか。それはやはり金銭そのものではないが、皆とシェアできるという特殊性をもってはいるが金銭的価値であることにはかわりはないからである。ギフトカード作戦は、非金銭的報酬だと主張されているが、それは本質的には金銭的報酬そのものである。なぜなら、日航のサンクス・カードは、組織内部の結束強化をもたらすような従業員同士の絆をもたらすが、ギフトカードはそうではないのだ 9。しかも、会社もギフトとして経費を予算化しなくてはならない。だから、これでは非金銭的報酬といえないのではないか?その意味で、米国においては、高額のキャッシュボーナスという金銭的報酬とギフトカードという「非金銭的」報酬という名前の金銭的報酬という、両極端があるだけで、本当の意味で成長という結果につながる原因に作用するような非金銭的報酬(ないし報奨)についての議論がなされているようには私には思えない。
キャッシュのもつ意味
厳しく停滞する経済の中で、キャッシュのもつ意味はむしろ大きくなっている。金銭的報酬の代わりに非金銭的報酬でその減少分を代替することは無理だろう。非金銭的報酬とは、そもそも 「recognition」 のこと、つまり認知(称揚されなくても認知してもらうこと自体に価値がある)をいうのである。「Lack of recognition」 (認知されないことのもたらす悲劇・害毒)として、よくいわれることがある。それは、10万ドルから100万ドルという成果報酬を手にしたインベストメント・バンカーが何を不満に思ったかというと、その投資銀行のチェアマンが本当に彼らがよくやったと思ってくれているのかどうか全く知らなかったということだという。なぜなら、チェアマンは一度も彼らに声を掛けたことはなかったから。
(この稿 続く)
1) これは 「Moment of truth」 (「真実の瞬間」)とも言われる。
2) 私は、ここでオペレーショナル・エクセレンスを、イノベーションを内包したものに定義した。しかし、ここで定義しているものは、一般に最も普通に使われる「オペレーショナル・エクセレンス」の定義とは異なる。通常イメージされる「オペレーショナル・エクセレンス」とは、「カイゼン」に代表されるトヨタ方式であって、ウイキペディアによると、それはもっと持続的で改善的な(抜本的変革ではなく)組織的優位性をもたらす特性のことをいっている。Operational Excellence is a philosophy of leadership, teamwork and problem solving resulting in continuous improvement throughout the organization by focusing on the needs of the customer, empowering employees, and optimizing existing activities in the process.
Operational Excellence’s values lie within Safety, Quality, Productivity, Human Development, Cost, and Implementation of OE.
Operational Excellence stresses the need to continually improve by promoting a stronger teamwork atmosphere. Safety and quality improvements for employees and customers lead towards becoming a world-class enterprise.
“Toyota has turned operational excellence into a strategic weapon. This operational excellence is based in part on tools and quality improvement methods made famous by Toyota in the manufacturing world, such as just-in-time, kaizen, one-piece flow, jidoka, and heijunka.” Liker, Jeffrey. The Toyota Way. New York, New York: McGraw-Hill, 2004
3) 「そこまで云わなくても理解してもらえる」と考えがちなのが、われわれ日本人だ。なぜ、嬉しかったのか、感心したのか、なぜ、 「thank you」 なのかを説明することは「野暮」なのだ。日本人はこうしたロジックをコミュニケーションに持ち込まない文化的特性を持っている。異文化コミュニケーションとして重要な論点である。ニホンでは、逆にコミュニケーションをとらないことが一種の美学になっているのかもしれない。しかし、「職場」では、こうしたコミュニケーションは必要であり、重要であることは云うまでもない。
4) Mr. Roger Stent, St*r Learning 社(英国)社長
5) 「不機嫌な職場」とは、社員が“自分の仕事”だけをこなし、担当外と見なした仕事を押しつけ合う。こんな企業の現場の実情を描いてベストセラーになった『不機嫌な職場』(講談社現代新書)がある。
6) 以上、日本経済新聞2009年3月9日「働くニホン」現場発 シリーズ による。
7) 以上、同じく、日本経済新聞2009年3月9日「働くニホン」現場発 シリーズ による。
8) Mr.Derek Irvine による。
9) この点に関して異文化コミュニケーションの見地からコメントすると、米国においては、従業員は会社集団の中で自分の果たすべき役割を期待以上にこなせば報奨が期待できるのであって (=individualism) 横の連携や他のメンバーからの賞賛などという連帯的な役割意識 (collectivism) は乏しい、という集団所属意識の違い、つまり集団に関する異文化性に背景があると私は思っている。非金銭的報酬というコトバひとつをとってみても、驚くような意味の違いがあることに気づかされる。