健康保険料の爆発が日系企業を襲う

多くの日系多国籍企業の製造拠点となっている中国、タイ、ベトナム、インドネシアのどこかで、健康保険料の企業負担が企業を襲うリスクについて想像すると正直ゾッとする。

 福利厚生制度に関するコンサルティングが私の担当であるが、日本以外の国では健康保険の比重が大きい。例えば米国ではサラリーマンの加入する健康保険の多くが私的医療保険となっており、民間の保険会社や企業自身が自家保険を導入している。米国現地ではこの分野の専門家としてサービスを提供している仲間が多数在籍している。またアジアの先進国であるシンガポール、香港などでも国が提供する強制の保険に加えて、民間の保険で補う企業が多く、その保険料のマネジメントは重要な課題になっている。その他の死亡弔慰金制度や疾病休職などのファイナンシングのための保険手当などの業務に比べてその比重は非常に大きいのだ。

 しかし中国、タイ、ベトナム、インドネシアでは、国によって事情は多少違うが、国の健康保険の制度に加えて民間の保険で上乗せの必要があるのは一部の幹部社員に留まっているというのが、現状である。これらの国では、日系企業か否かに関わらず幹部社員以外と工場勤務の一般従業員は、全く別の福利厚生制度となっているのが実態だ。また、工場勤務の一般従業員に、同様の福利厚生制度を入れる動きがあるかというと、そうではない。

 ただ、現地任せは多くの日系企業の常であるとはいうものの、幹部社員に付保している民間の健康保険の保険料の動向、付保の水準、一般従業員への適用の実態などを継続的に把握している企業はほとんど見受けられないというのでは、少し不安になってくる。仮に幹部社員と同じ民間の健康保険の上乗せを工場勤務の一般従業員まで範囲を広げろと、組合が突然訴えてきた際に、本社として市場水準に照らした適切な対応ができる日系企業がどれほどあるだろうか?

 ある企業の例で言えば、その事態に陥った場合、人数換算をすると中国の健康保険に関わる費用は一気に二百数十倍に膨れ上がってしまう事になるのだ。リスクの大きさを考えると、野放しには出来ない重要な課題であると提起したい。

 少し話しを広げて福利厚生制度としてみても、日系企業の海外拠点での現地任せの実態は、変わらない。福利厚生制度に対しての無関心な様子すら感じてしまう。日本では全産業で企業の大小を問わず、ほぼ平等な福利厚生制度だからかもしれないが、無関心な日系企業が多いのは残念だ。

 しかし改めて考えると気づくが、健康保険を筆頭とする福利厚生制度なるものは従業員本人のためというよりも、その従業員が大切に思う家族のためと言える恩恵が少なくない。健康保険はもちろん、企業負担の生命保険などほぼ家族のためと言って過言にならないはずだ。家族との関係性が一般的に強い国がアジアでは少なくない。家族のためのこれらの福利厚生制度を充実させることの効果は、会社が思っているよりも大きいのだ。そして従業員からの期待も大きい。

 各国現地での一般従業員までを対象とした福利厚生制度についてどうマネジメントしていくのか、また人事戦略上どう活用していくのか、この2点は今後、海外に展開する日系企業にとって重要な施策になると感じている。

 「福利厚生制度が充実しているからこの会社には長く勤めたい」と米国駐在の際に言われた経験を持つご担当者も、この数年間毎年5%以上増加している健康保険を主とする福利厚生制度のコスト対策が現地任せになっているリスクについて考え始めている。優秀な従業員の定着には欠かせない要素であると同時に、この部分の不足が恒常的な不満となった場合の大きなリスクに発展することが容易に想像できるからだ。

 また、ある企業で海外にいる従業員の保険関連の福利厚生制度のコストを、マーサーのデータベースを元に市場水準から算出してみると、1人あたり約4.6万円、総額では10億円をはるかに超える数字になった。「現状ではこんなに掛かってはいないので大丈夫」と担当の方は言いながら次の瞬間ハッとした様子であった。市場水準と既に大きく差が付いていることに気づかれた様子で、新たな課題を発見してしまった瞬間であったのだ。

 では、欧米企業ではどうしているのだろうか?特に米系の多国籍企業を中心に、福利厚生制度について本社から各現地へのガバナンスのモデルを既に持っている。

 フォーチュン500に登場する企業の90%以上が、プーリングと呼ばれる各国の福利厚生制度を統合しコスト削減を図るスキームを活用すると同時に、グローバル・ベネフィッツ・マネジメントというガバナンスの概念を持っている。また、変化している法令水準や市場水準に照らし合わせ、人事戦略上の自社のポジショニングを維持できる仕組みを持っているのだ。その主力なアウトソーサーの一つが私達マーサーだ。

 世界130カ国で17,500人の仲間が、福利厚生制度の専門家として国際企業のお手伝いを既にしている。その扱う保険料は年間40億ドル(約3.6兆円)と膨大だ。現地での保険手配や給付手続きはもちろん、保険会社との価格の交渉、各国の福利厚生制度コストの集計・報告など本社側と現地両方にそれぞれ担当を配置し、ガバナンス体制を横から支える構造だ。

 生産管理・品質管理の仕組みづくりにおいては、日本の強みが今でも十分生きていると信じている。この強みが世界に製造拠点を広げ価値ある製品を世に出し続けているだろうし、最近では海外進出のトレンドはコンビニのような業態にも発展しているようだ。日本ならではの企業文化に加え、欧米が得意としたガバナンス手法を合わせて、日本の企業の役に立ちたいというのが、私たちの願いだ。

 健康保険料の爆発への備えと、福利厚生制度の戦略的活用ための日系企業に対する私の答えは、ガバナンス体制の「地ならし」から始める事だ。現地任せの体制から、本格的なガバナンス体制まで発展させるのには欧米企業でもそれなりの時間が掛かったはずだ。日系企業は、現地の担当者が誰であるかを把握することから始め、現地での福利厚生制度の現状の確認、現地でのコストの変化が把握できるよう報告のルールを作り、廻すことから始める必要がある。

 現地と地域・全世界の状況が可視化できるようにすること、また、年を重ねて変化を一緒に確認していく中での信頼関係の構築は、ガバナンス体制への移行の地ならしに十分なるはずだ。現地特有の事情が色濃い分野で、いきなり本社が口を出すことのリスクは誰もが想像出来る。可視化が出来るようになれば、コスト削減など現地とも進めやすいプロジェクトを開始することが出来る。これが、日系企業にとっての大切な一歩になるはずだ。

 ところで、私事で恐縮だが、次女が母校の大学に合格した。父から三代続いたことになるのだが、妙に嬉しい。ややこしい先輩が出来て迷惑なはずであるが、当の本人もまんざらでもないらしい。「先輩!」などと私を呼んで、喜ばせてくれる。

 その母校が、今年からグローバル人材を育成する目的で「新渡戸カレッジ」という特別講座を設ける。「国際社会の中で日本人としての自覚を持って生き抜くリーダー」を養成するという趣旨のようだが、英語で散々苦労している私は先輩風を吹かせて娘に行ってはどうかと持ちかけているところだ。

 五千円札に肖像が描かれる新渡戸稲造先輩だが、国連設立の際の事務次長でもあるきっての国際人だ。「西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる」と志した新渡戸先輩の思いが、次女に少しでもつながることを期待してしまう。

 また私自身も 仕事を通して、「伝える橋」になりたい。新渡戸先輩には及ばないが、せめて後輩に対して恥ずかしくない仕事をして行きたい。

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執筆者: 加藤 剛 (保健・福利厚生コンサルティング)
シニアコンサルタント

略歴
 リクルート、生命保険会社、英系保険ブローカーを経て現職。
 マーサーでは、グローバルな保険ベネフィットのガバナンス体制構築のプロジェクトに従事。特に日系多国籍企業向けに、国際プーリングを活用したコスト削減とベネフィットの管理システム”MercerGOLD”導入支援に注力している。

 北海道大学水産学部化学工学科 卒業
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マーサージャパン株式会社プロフィール
マーサーは世界 40カ国以上、約180都市において、コンサルティング、アウトソーシング、インベストメント分野で 25,000 社以上のクライアントにサービスを提供するグローバル・コンサルティング・ファームです。世界各地に在籍する 19,000 名以上のスタッフがクライアントの皆様のパートナーとして多様な課題に取り組み、最適なソリューションを総合的に提供しています。ニューヨーク、シカゴ、ロンドン証券取引所に上場している、マーシュ・アンド・マクレナン・カンパニーズ(証券コード: MMC )グループの一員です。[http://www.mercer.co.jp/ ]